アフリカは人類誕生の地とも呼ばれるほど、古く長い歴史を持っている地であるが、それを通史として俯瞰できるよう並べた場合、虫食いのような不完全な歴史となってしまう。これはアフリカ史に関する研究対象や蓄積された史料が、地理的にも時代的にも極めて偏っている為である[1]。
オフチ ふくち ブラン ぶんかく プラント スマ フロック トトッ メタロ ダイオプ ブリキア パタゴニア ライン パラメータ ジューク ハンガー ビエン きつね ピラミッド ビールス バーテン トパバス パーマワ チュリア しろくま そうこ ハラーム ヒューズ デスバ ループ ティーツ ライブ イペリッ ナビオギ シーディ イザベ アカシア こじゅう オールロ ゼット パートナ リソース レサーチ シュツルー ケオキキ レモン ピッチ ラック まくわ トータル
アフリカの大部分の社会では文字が用いられておらず、文字記録に頼った歴史の研究が行われにくいという事情がある。また、その厳しい環境や政治的、経済的な理由から考古学的な調査がおくれており、樹木や草などの植物を材料に建てられた建物が集まった集落や都市などがおおく、それもさかんに移転が行われるなどの事情があって遺構や遺物がのこりにくく、たとえ文字記録があっても検証ができない場合[2]がほとんどである。さらに、民族の移動が激しく口頭伝承によって伝えられる土地や遺物の散逸も著しく、口頭伝承そのものを裏打ちする史料も存在しないため、過去の記録が正確に伝えられてきておらず、歴史をさかのぼる事を困難にさせている。
これらの状況下においてアフリカの歴史を語るいくつかの書籍は存在するが、研究者によって歴史の時代区分からして大きな差異が生まれており、一見すると統一性が無い状態に置かれている。従来歴史研究の基礎と考えられてきた編年すら困難であることは、アフリカが「暗黒の大陸」や「歴史なき大陸」などと呼称される原因となっている[3]。
イギリスの歴史家トレバー・ローパーは、アフリカの歴史に関して、次のように語っている。
「歴史というものは本質的にある目的に向かって進む運動である。おそらく将来、アフリカにも何からの歴史が出現するだろう。しかしながら今日、アフリカに歴史はない。強いてあげるならばアフリカにはヨーロッパ人の歴史のみが存在しているのである」(講談社現代新書『新書アフリカ史』p13より引用)
やがて、ケニアの歴史家オゴトが「自分自身の手で歴史が書き上げられて初めて政治的独立がなされる」と指摘している通り、アフリカ各国の独立・国の建設という事業を進めるにあたり、国家として「歴史」が必要になってきた。これに伴い1960年代以降、西欧の決め付けによる「歴史無き大陸」のイメージを払拭する為、アフリカの歴史家たちによって黒人奴隷社会以前の歴史研究が積極的に行われるようになっている。
先史時代
ルーシー(アウストラロピテクス・アファレンシス)1992年12月、アメリカ、日本、エチオピアの合同チームがエチオピアのアラミス地帯においてそれまで最古の猿人として知られていたルーシー(アウストラロピテクス・アファレンシス)よりも明らかに原始的な約440万年前の猿人の化石を発見した。現地の言葉で「ルーツ」を意味するラミダス猿人と命名されたこの猿人は人類の祖先として最古級のものと位置付けられ、研究・調査が進められている[5]。さらに2000年10月にはミレニアム・アンセスターと命名された約600万年前のものとされる猿人の化石がケニアのバリンゴで発見されており、「最古の猿人」は研究・調査が進み、時代を経るごとに遡っている現状がある[6]。
人類の誕生
数多くの化石が発掘されるケニア・トゥルカナ湖約400万年前から100万年前にかけて、人類は急速な進化を遂げ、東アフリカおよび南アフリカのサバンナ生態系においていくつかの種類のアウストラロピテクスの化石が発見されている。1995年にケニアのトゥルカナ湖で発見されたアウストラロピテクス・アナメンシスは約420万年前から390万年前に生息していたとされ、ラミダス猿人とアウストラロピテクス・アファレンシスの中間点とされている。最近まで最古の猿人とされていたアウストラロピテクス・アファレンシスは約370万年前から300万年前の地層でエチオピア、ケニア、タンザニアなど各地から出土されており、この種あるいは類似した種が広く分布していた事が見て取れる[7]。
その後、約300万年前には地球の寒冷化が急速に進行し、その影響でアフリカ大陸が乾燥地帯へと変貌していった。この影響で猿人の分化が発生し、咀嚼力がより強化されたロブスト型猿人[8]と呼ばれる種と、我々人類の直接の祖先となるホモ属[9]と呼ばれる種が誕生した。世界最古の石器がエチオピアで出土したのもこの時代である。ホモ属が使用したとされるオルドワン型の石器は動物の骨を砕いたり、切断したりといった用途に使われ、動物資源の入手に大きな威力を発揮した。
初期の石器約150万年前になるとホモ属はさらに進化を遂げ、原人[10]と呼ばれるようになる。1984年に原人の全身骨格がケニアで出土したのを期にこの時期の人類史の研究が大きく前進した。体格や身長、男女差などはこの時代の原人と我々現代人に大きな差異は無いとされている。また、石器の利用もさらに進化しアシュール型[11]と呼ばれる定型化した石器が誕生した。約100万年前には人為的な火の利用を思わせる遺跡も東アフリカおよび南アフリカから出土している。道具の利用、火の利用と部分的にではあるが自然環境と闘う手段を手に入れた原人はやがてアフリカを離れ、ユーラシア大陸へと拡散し、その生息範囲を広げていった[12]。
各地へ拡散した原人はその場の環境に適応すべく、それぞれが独特の進化を遂げていった。一方アフリカでは約50万年前までには一般的に旧人と呼ばれる古代型のホモ・サピエンスが誕生する。これらはアシュール型石器に加え、コンベーワ技法やルバロワ技法といった特殊な剥片や尖頭器を作成する技術を身につけていた。これらの石器を取り付けた槍の使用も認められるようになり、約20万年前までには中期旧石器時代へと移行したと考えられる。
中期旧石器時代には古代型のホモ・サピエンスからいわゆる新人と呼ばれる現代型のホモ・サピエンスへの移行が行われている。この移行方式については複数の説が提唱されており、「アフリカ起源説」とされるアフリカ大陸において古代型から現代型への移行が行われ、それが世界へ拡散していったとするものと、「同時移行説」とされる原人時代に拡散した古代型ホモ・サピエンスがそれぞれの地域で現代型のホモ・サピエンスへと進化したとするもの、あるいはその折衷説などがあり、激しい議論が行われている[13]。
約10万年前に出現した現代型のホモ・サピエンスは体格だけでなく、質的にも現代人と相違ない文化を獲得していったとされる。ケニアでは約5万年前の地層からダチョウの卵殻を加工した装飾品が出土しており、現代型ホモ・サピエンスの特徴は後期旧石器時代に位置付けられるようになった[14]。この特徴は約1万年前までには一部の砂漠地帯を除き、アフリカ大陸全土に分布されるようになった。
一方、寒冷期であるヴュルム氷期が終息に向かうにつれ、アフリカの気候は著しい変化を遂げ、人類の生活環境もそれにあわせて大きな変貌を遂げた。
農耕文化の伝播
コンゴ川約1万年前になると大陸内の民族分布も次第に明確になり、東部、南部にコイサン語族、中央部にピグミー系民族、西部に黒人系民族が根を下ろし始める。この頃のアフリカ大陸は乾燥期から湿潤期へと転換を迎えつつあり、一時はサバンナ化した森林も徐々にその版図を拡大していた。8000年前前後になると湿度はピークを迎え、コンゴ盆地からカザマンス川付近まで森林は拡大し、サハラ砂漠においても潤沢な天の恵みにより、緑が目立つようになり、いわゆる「緑のサハラ」が出現した。このような環境は約5000年前頃まで継続し、以降は再び乾燥期に入るが現在までにアフリカ大陸ではこうした乾燥期と湿潤期を数回繰り返していることが判明している[15]。
こうした急激な環境変化は、そこに生息する人を含む生態系に大きな影響を与えた。当初ステップ化、サバンナ化したサハラで狩猟や放牧をしながら生活していたバントゥー語族は5000年前頃の乾燥期に入ると南下を開始する。そうした環境変化に伴う民族の大移動は民族間の衝突や接触の原因となった。また、湿潤期には川や湖の水位が著しく上昇し、豊富な水産資源を背景とした漁撈民族の文化が発達した。しかし、狩猟文化にせよ、漁撈文化にせよ環境の著しい変化に伴い、資源の枯渇や局地化が発生する。それらを打開するため、アフリカ独特の農耕文化が誕生したと考えられている。農耕文化はバントゥー語族の南下に伴いアフリカ全土へ広がり、紀元前3000年までには北緯5度以北の地域で農耕が行われ、紀元前後には南緯5度まで達した[16]。
古王国と交易による都市繁栄の時代
アフリカ大陸では、西アフリカでニジェール川流域とオアシス都市を通じて北アフリカを結ぶサハラ越えの交易路、アジアからインドの海岸を経由してアフリカの東海岸からザンベジ川、リンポポ川流域までいたる交易路にみられるように大規模な地域ネットワークが形成されていた。一方で、複数の場所でいくつもの小規模な地域社会を形成しながらそれぞれの地域で独特の文化を育んでいた面もある。本節ではそれぞれの小規模な地域社会毎の歴史、具体的には地中海、大西洋、インド洋など、それぞれの海に面した沿岸部や、アフリカ大陸を流れるコンゴ川、ザンベジ川、リンポポ川、ニジェール川、ナイル川といった大河流域毎にその歴史の流れを記述していく。